なに言ってるか、わからない
最近、なに言ってるかわからない人が、自分の前に現れて来ている。
話を聞いても聞いても、何が言いたいか全然わかんないの。何でかな?と思っていたら、その人の『気持ち』と『言っていること』が違うときに、そう感じてるみたい。
たぶん、昔からその感性はあったんだと思うんだけど、最近顕著にそれがあって、驚くほど、何言ってるかわからない。そして、すごく混乱しちゃう。
これ、やばいな。勘のいい子どもなら、そんな場所にいられない。っていうか、私自身がそこにいられないし、その人と話せない。今まで、どんな人とも会話できることが私の取り柄だったけど、もう、使えないわ。
ま、いいけど。
自分の気持ちに素直になってきたのだと思う。おもしろい。
これはイヤ、これは好き。明確になればなるほど、お金を稼げる。そんなことを思った春。起業してても、組織の中でも、家庭の中でも、全部一緒。お金を稼ぐことも、人脈が広がることも、家庭がうまく回っていくことも、全部一緒。
全部、私のもの。
“悪だくみ”仲間、募集
私の事業計画は以下の3つ
《あるくこと》
歩くことは本能的だ。歩くことでしか感じられないことががある。
《はなすこと》
話すことは離すこと。離すことは放すこと。そうすることで思考や想いを外に出していく。1人1人の想いをときに重ね合い、ときに絡めていきながら。
《あいされること》
誰かを愛したい、誰かを憎みたい、誰かを助けたい、誰かを包みたい…誰かに愛されたい。循環の原点。
先を見据えているわけじゃない。今の現在、起きていること。
“だれの予測もできなかった事態”
だ、か、ら、
あー、もっと、悪だくみしたいな。私、ずっと男の子に憧れてて、イタズラして先生に怒られて反省したふりして、くるっと反対向いたらもう笑ってる、みたいな子が大好きだった。
もっとギャハギャハ笑いながら、しょーもないこと、やりたいな。
あ!大人のピクニック、ちょっとアレンジしちゃお!
泥団子つくったり、絶対着ない服選びしたり、んー、なにしよ?
ね、ね、ね。
一緒に、あーそーぼ!
なにしたい?なにする?なんでもできるよ。
私となら。あなたとなら。
!
お金に執着してみる
「稼ぐ」宣言してから、数日しか経たないけど、精神的な変化。
“お金があってもなくても、毎日の過ごす気持ちに影響は、そんなにない”
って、こと。これ、なに?なんの効果?なんの呪文なの?
執着するって、ダサいと思っていた。それがお金を遠ざけるって思い込んでいた。だから、執着しないように、《いい距離》をとるためにがんばっていた。実際には全然できてなくって、 かわいそうなコト、しちゃったな。
嫌いになったり、期待しすぎたり、愛しすぎてムシしたり、監視してたり…
信用してなかったね。え?何の話?子育ての話?
・・・・・
一緒かも。できた人間じゃないんだから、ちゃんと執着したらいいんだ。
そっか。そーなんだ!
身体の力を抜くとき、そのまま息を吐いて力を抜くより、緊張させるように力を入れてから脱力した方が、ずっと力を抜ける…みたいな感じ。
なんか、通り抜けた人の結果だけ聞くと、
「お金のことは忘れる」
みたいなこと言うじゃん。忘れようとすればするほど、頭に残るっつーの。
今のところ、全然気にならなくなった!ってほどではないけど、年度末の支払いが全然追いついてないにも関わらず、穏やかに過ごしている。まー、何とかなるでしょ、って。
むしろ、朝、目覚めたときに、障子に映るの木漏れ日の陰影を眺めながら、
『豊かだな〜。』
とすら思ったから。そう、豊かな毎日なの。毎日いる息子が、おいしそうにご飯を食べる、夫が帰ってくる、娘が泣く、blogを綴る…。
欲しいものは、全部あった。私の手の中に。
“お金がない”恐怖は、“死”への恐怖
「稼ぐ」と宣言してから、お金と向き合っている。
お金がないと困る?
お金がなくなる、が恐い?
なぜ?
お金がなくなる→ご飯が食べられなくなる→死ぬ
お金がなくなる→好きな物が買えなくなる→生きる喜びがなくなる→死ぬ
お金がなくなる→恥ずかしい→人に会いたくない→孤独→死ぬ
お金がなくなることの恐怖は、「死」への恐怖。
もしかしたら、私の向き合うべき相手は「死」なのか…。
「死」の恐怖…
なくなる?
いや、むりだ。
悟りを開くか…
そーしよ。
いや、違う。
10代の頃、「メメントモリ〜死を想う〜」という写真&詩集を読んだ。ガンジス川のほとりで遺体が焼かれている。匂いまで伝わってきそうな衝撃の写真だった。“死を想う”ってどういうことだろう。ときどき、思いかえす。
3人目の出産の時に感じたあの、バチっとした感じ、忘れない。
うまれる=しぬ
しぬ=うまれる
対極にあるようなコトが実はイコールだった、と感じた。
だから、そう。
「生」「死」はセットなんだ。
ってことは、「死」の恐怖から逃れるのではなく、「死」の恐怖を抱えて生きて行く、それぐらいでいいんじゃないか。
そうじゃないと「生」の実感が持てない。あー、「死」の恐怖はあっていい。いや、あるコトでむしろ、“命”が輝く。
そう。
この世もあの世、あの世もこの世…。天国も地獄も、平安も混乱も、希望も絶望も全て、ここにある。
3000円の呪縛
4月中、私の開催するイベントは全て、
参加費3000円…
これにはワケがあって。私が子どもの頃、誕生日、クリスマスのプレゼントは3000円までのものと決まっていた。小学生の私はウキウキでぬいぐるみを選んでいたりした。中学生で物足りなく感じるようになってもなお、このルールは適応され続けていた。同級生の友人に「うちのプレゼントは1万円か、ほしいもの。」って言われて「え!そんなん1万円もらった方がいいじゃん!」って言ったら「1万円以上するもの(例えばウォークマンとか)がよかったら、そっちを選ぶんだよ。」って言われてカルチャーショックだったのを覚えている。
どこかで私は3000円に縛られて、大人になった今でも、手土産の基準は3000円だったりする。自分の講座に値段をつけるのも、3000円が一番心地よい。
ビンボーくさいな…
って感じてる私。いや、そうかな?
3000円。
悪くない、うん。むしろ、いい。
3000円。
今はその金額に抵抗なく愛情を感じる。気兼ねなく受け取れて、気兼ねなく受け流せる。それでいい。
3000円。
もう少し、満足するまで、そばに置いておきたいと思うんだ。
3000円。
財布の中から3000円出して、撮りたかった…のに。
300円を払う勇気
今日は、ホントしょーもないっす。まじで。
私は車を運転しないので、自転車が大事なアシなの。この自転車さんは、働き者で12歳の長男が一歳になる手前から乗り続けている。3人の子どもをいろんなパターンで乗せて保育園や職場まで、たくさん私を運んでくれた。
でさ。家から最寄りの駅まで自転車で行くと、二ヶ所の駐輪場があるのね。そもそも駅の駐輪場ではなくどちらもスーパーのお客様用。どちらも無料だったから、買い物客ではなくとも利用する人もいて、いつもどちらも自転車はいっぱいだった。自転車って、パンパンなところに突っ込むと、もう最悪なこじれ方するじゃん。あれがいやで、いやで。
あー、もう、有料でいいから、私の大事な自転車を預かってほしい…
と思ってたら、一ヶ所の駐輪場が買い物客問わず、有料(2時間以上300円)になったの。おー!やった〜!って喜んだのもつかの間、『え、もう一ヶ所は無料でしょ。そっちに停めてそっちのスーパーで買い物すればいいじゃん。』っていう気持ちになったんだよ。で、もう一ヶ所の方を見ると案の定、一層溢れかえる駐輪場。
ふ〜。あれ?私、前、なんて思ってた?
りぴーと あふたみー
有料でいいから、私の大事な自転車を預かってほしい…
有料でいいから…有料で…
というわけで、有料駐輪場ができてから、いつも無料駐輪場にしようかどうか迷って、いや、ここは
あえての有料!!!
こっちを選び続けます。
あー!しょうもないって、思ったでしょ。思ったでしょ。思ったでしょ。
いや、私が一番、思ってるからな!!!
でも、自分をすぐ格好良く見せたがる私の『しょうもない』、をさらす。
🔻自転車、(300円で)マモルくん…という名前では決してない。
いつだって願いを叶えてきた
最近、『歩く』が気持ちいい。
足を棒にして、5時間も6時間も歩く。くったくたになった帰りは電車やバスに乗れば1時間で元の場所に帰れる。そこで、驚くよ。
文明って、すげ〜!!!
そう!病気の親が心配で、愛する人に会いたくて、見たこともない世界に出逢いたくて、そうして交通は整備されてきた。みんなが大きな期待を寄せたとき、それは大きな力になって、実現していったんだ。初めはたった1人の夢だったのかもしれない。
車も電車もない時代に想いを馳せていた。
“私の人生は誰かの祈り、そのもの”
そんな気持ちが湧いてくる。お金は今の時代のエネルギー。自分の中にどうやって循環させていくのか、実験していく。お金の循環、思考の循環、血液の循環はきっと繋がっている。私の身体は私のものだけど、ここまで繋がってきた誰かの『祈り』が刻み込まれている気がしてならない。
誰かが叶えられなかったことも、誰かが叶えてきたことも、全部私のものにして
【今を生きる】
誰かを、何かを、“安全なところ”で批評することは、もうやめた。わかったような口調でアドバイスすることもやめる←難しい(゚∀゚)
とりあえず、言葉が溢れて止まらない春分の日…。